望と某と紡と世界と

好きなものは SEKAI NO OWARI、Radwimps、宇宙兄弟、ちはやふる、深夜のダメ恋図鑑、BASARA、宮崎駿作品など

改めて、自己紹介

#福島尚美

 

こんにちは。福島尚美です。

佐賀県唐津市で、市議会議員の1期目です。

 

どうして政治に関心をもったのか、とか、どうして議員になったのか、とか、よく聞かれますが、どーーーん!と何か衝撃的な出来事があった訳ではなく、気が付いたら政治に無関心でいられなくなっていました。

 

長い自己紹介になりますが、お時間の許す方はお付き合いください。

 

佐賀県唐津市に生まれ、母校は大成小学校・第一中学校です。

中学生のときに、なんとなく自分がセクシャルマイノリティであることに気が付きました。そのときは分かりませんでしたが、現在、自認する性は、Xジェンダーパンセクシャルです。つまり、自他ともに、性別を重視していないということです。

 

高校は福岡の私立へ進みました。

大学へ行く目的が浮かばなかったので、スポーツの専門学校へ行き、スクーバダイビングのインストラクターライセンスを取得。実習では、小笠原父島で約70日、海漬けの日々。野生のイルカと泳ぎ、鯨に出逢い、30M潜っても空の明るさが分かる「本当の地球」に感動したものです。

このときの、19歳の出逢いは、一部 今も続いています。地球が好きな、愉快な仲間です。

 

専門学校卒業後、行きたかった都市型ショップには採用されず、唐津でフリーターを続けました。ある日、喜界島に海の仕事があるという連絡を受け、1年半ほど喜界島で漁やダイビングの仕事をしました。

 

島で拾った犬と共に、20代前半で帰郷。しばらくフリーターをしながら、25歳で自衛隊に入隊しました。徹夜で引き留めてくれた友人もありましたが、やってみなければ分からない、がモットーです。

28歳、カウンセリングの勉強をするため、自衛隊を辞めて、月に1回 唐津から東京へ通学。振替クラスもできて、月に1回のクラスのために、引っ越すまでもないだろうと思い、唐津でバイトしながら夜行バスにお世話になりました。

 

29歳、カウンセリングのコースが完了するものの、唐津にいても・・・と思い、上京を決めました。さらに、一度やってみたかったので、普通の自転車で東京まで。

途中、1年以上前から気になっていた、大阪の小学校。南住吉大空小学校へ立ち寄りを申し込み、1日を学校で過ごしました。6年生と本気の駆けっこをしたら、翌日は全身筋肉痛に。

 

無事に東京へ着き、1カ月間の求職活動を経て、貧困者支援のNPOで働くことになりました。思えば、この30歳までの行動力と、30歳からの出逢いのすべて「政治への関心」に繋がっていると思います。

東京での仕事では、普段の会話で、高度経済成長の光の当たらない歴史を、聞いている気持ちでした。戦争、屯田兵、沖縄、梅毒、結核。こういう言葉に、「普通」に出会いました。そこにルーツのある人たちに出会いました。お一人で、自室で亡くなられた方は骨を拾うところまでのお付き合いになりました。そこで感じたのが、政治の恐ろしさです。

団体としての研修では、かつて厚生労働省事務次官を務められていた村木厚子さんの話を聞く機会があり「国の機関にも、こんなに人間らしい人がいる」と感動しました。

時間が惜しいとばかりに、都内各地の集まりにも足を運びました。世界銀行の元副総裁、西水美恵子さんとのワークショップも忘れらない出来事です。ブドウの房の一番下で、みんなを担いで走り回っている。職員から、そう評される西水さんは、貧困でもなんでも自分が率先して体験し、体験でしか得られないことを大切にし、職員にも体験に行かせる「現場重視」の人でした。そして、聞くこと・話すことにおいて、一語一語を大切にする方でした。

 

31歳、残る東京から北海道までを、自転車で走り、東京港から自転車ごとフェリーに乗船。2泊3日で門司港へ到着。門司港から唐津まで、自転車で走って帰ってきました。

東京から北方の旅は、書ききれないくらいのことがあります。

 

ちょうど、その頃でしょうか。安保法制の話が出てきていましたね。2015年です。

これは大変だ、と、柄にもなく福岡の路上でトークリレーに飛び込んだのが「人前で政治的な意見を言う」初めての体験でした。

気になったことは、自分で確かめに行く。沖縄の辺野古、キャンプシュワブ前に5日間泊まり込み、何が起きているのか考えました。

 

期間労働で活動費を捻出しながら、政治から離れるのはもう無理な状態になっていきました。その先に、唐津の市議選があり、ギリギリの当選となりました。

20代の大半を県外で暮らし、未婚ですし、子どももいないのでママ友やPTAなどの繋がりもなく、消防団や町内会などの繋がりもない。政党として、日本共産党の綱領に共感し、日本共産党として踏み出した一歩でした。